「みどりの会」メンバ―7名と「東京国立博物館」を散策。
幸い雨の影響は殆どなく、先ずは 裏庭である「庭園」を散策。さすが国立博物館だけあって重厚な展示内容で、一日では廻り切れない。
異国の参観者も多く、仁王様の大きさに匹敵するの南アからのインバウンドの来館者が印象的。
序に 帰り際に 国立科学博物館や国立西洋美術館にも立ち寄る。
午前中 上野の森美術館「第38回 日本の自然を描く展」絵画鑑賞に出向く。
展示絵画数は2331点もあり、9月から「西日本展」もすると言う。
山本邦克君の入選作「軽井沢:雲上池」を鑑賞、10数年連続入選と言う。
見事な紅葉の季節を描いた力作である。
この後 冠賞・優秀賞・無鑑査作品をもじっくり鑑賞。
帰りは いつもの通り西郷さんを写真に納め、昼前帰宅。
今回のGoogleMap;
<https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1cWbM-vIZMQyJVI_mMROvmq8D_DLfqso&ll=35.016663219398325%2C135.84510880915266&z=12>
早苗姉の一周忌法要に紀代と共に参列。
新幹線”のぞみ”往復は家族連れの乗客多く、全て座席指定の満席。
十数名の今村ファミリーと姉を偲ぶ。
3時頃よりお墓(車で15分位の”びわ湖霊園”)で法要、炎天下で小一時間の南無阿弥陀仏読経、なかなか気さくな人柄のお坊さんである。
姉はフェリス女学院大学を卒業後、昭和38年から約1年間 日立本社(新丸ビル)の特許部(現在の知財部)に勤務していた。初台のアパートに下宿(逗子の修三伯父宅⇒初台)していた小生と同居することになった。
これは今から推定するとお袋の”差し金”で、このアパートの入居者は女性が多かった為、明らかに小生に対する”牽制球”だったのであろう。
この時期 親爺・お袋は下館市(現在の筑西市)に在住。良き時代であった。
親爺のお袋は旧性「武井」と言い、東隣の「真壁町」出身。
<この旅のクラブツーリズムの売り>
江戸時代から続く”習わしの順序で神宮を参拝”。
*************
<1日目> 7月17日(木)
・東京駅(9:27発))--新幹線こだま号・--豊橋駅
-二見浦・夫婦岩 二見興玉神社/
-伊勢 松阪牛・イセエビの夕食/-----全く期待に反する!
-志摩(泊)
「グランドメルキュール伊勢志摩リゾート&スパ」/連泊-----設備が老朽化。
*************
<2日目> 7月18日(金)
-猿田彦神社 [みちひらきの神様]/
-伊勢神宮・外宮/外宮参道で昼食/
-横山展望台・日本有数のリアス式海岸美を誇る絶景/
-賢島 (英虞湾遊覧船)/
-「グランドメルキュール伊勢志摩リゾート&スパ」ーーーー「一人旅の老人」には不親切。
*************
<3日目> 7月19日(土)
-伊勢神宮・内宮[「お伊勢さん案内人」同行で参拝。
--おかげ横丁/内宮含め約3時間滞在/
--<伊勢志摩スカイライン>
-朝熊岳・金剛證寺[伊勢神宮の奥の院/
-朝熊山頂展望台
標高555mの高台から伊勢湾を見下ろす/
-伊勢・真珠店【養殖真珠発祥の地】ーーーーー「豚に真珠」
-豊橋駅--新幹線こだま号-東京駅(21:48着)
以上
大相撲こけら落としの愛知アリーナ名古屋場所の終了後に 玄関先で 先祖の霊を迎える。
「盆提灯」2基と目印の天井から吊るす「岐阜提灯(白紋天)」を新調す。
電池式なので安全に配慮。
以下(WIKIより)
お盆の起源は、仏教経典『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』に記されています。
お釈迦様の十大弟子の一人である目連尊者(もくれんそんじゃ)は、亡き母が餓鬼道で苦しんでいることを知り、お釈迦様の教えに従って多くの僧侶に供養を行い、母を救ったとされています。
この故事が「盂蘭盆会」の原型となり、祖先を供養する習慣として東アジア全体に広がりました。
日本にこの教えが伝わったのは飛鳥時代とされ、初期は宮中行事や寺院での法要として行われていました。
やがて、もともと日本にあった祖霊信仰——死者の霊は一定の時期にこの世に戻ってくるという考え方——と融合し、民間の中で広く受け入れられるようになりました。
家族が霊を迎え入れ、共に過ごすという行いは、時代を超えて現在まで続いています。墓参りや仏壇への供物、お迎え・お見送りの習慣なども、この融合の中で自然に形成されてきました。
魚たちと身近に接し楽しめる空間。
1階・海面フロアでは東京湾の群れを作る魚たちが優雅に泳ぐほか、イルカ・アシカのショーなどが。
地下1階・海底フロアではトンネル水槽、クラゲ、イルカショー、アシカショー、ペンギンランドなどが。別棟アザラシ館ではアザラシが泳ぎ回る様子が。
入館料:65歳以上1200円
小塚原刑場とならぶ江戸の処刑場。
東海道沿いの江戸の入口に慶安4年開設。
丸橋忠弥、平井権八、天一坊、八百屋お七などがここで処刑された。
首を洗ったとされる井戸、火あぶり用の鉄柱、磔用の木柱を立てた礎石、題目供養塔などが残る。